October 2004

October 04, 2004

谷口幸男『エッダとサガ』新潮選書 1976

……まさか僕が、君の住むふるさとにやって来ることになるとは思いもしなかった。フロムを出航した間際は、それでも乗客の多くが甲板に出て驚くやらはしゃぐやらしていたけれど、いまはもう僕のほかには数人しかいない。いくらすごい景色とはいえ、こんなに寒くてはね。とくにご老体には、この雨はこたえるのだろう、アメリカからやってきたという年配の団体客は、とっくにキャビンに引っ込んで、おしゃべりに夢中だ。/君からもらったポストカードには、夏の晴れわたるフィヨルドの大自然が写しとられていた。雲がわずかにかかる真っ青な空を、フィヨルドの岩盤が斜めに切り裂く。けれども、岩場の木々は新緑に輝き、大地には確実にやさしさが満ち溢れていた。トリミングされた風景は、風光明媚な観光地としてのイメージを記憶の中に焼き付けたのだ。/ところがどうだろう、現実に僕の前に立ちはだかるソグネフィヨルドは、苛酷で険しい山の自然そのものだ。観光シーズンをとっくに過ぎたいまごろになってやって来たのだからしかたがないにしても、現実は想像をはるかに超えるものだった。/数百メートルの岩の壁の上部には霧が冷たくたちこめ、湿った大気は僕のからだの隅々にまで侵入し、まるで細胞までもが凍ってしまいそうだ。フェリーボートは規則正しくエンジン音をあげる。しかし、この巨大な渓谷に重く漂う静寂さをふりはらうには、あまりにも脆弱だ。/でも、僕は、君の言うとおり、冬の気配に満ちたこの峻烈なフィヨルドの方が好きだ。君がこの風景を僕に見せたかった理由も、僕にはとてもよくわかる。君の暮らすノルウェーは、氷河の上に築かれた国。その古代の記憶を僕たちに呼び覚ますフィヨルドは、決して風光明媚な書割りではないからだ……
95年の秋、ノルウェーのソグネフィヨルドを船で遊覧しました。『エッダとサガ』の物語の背景となっているヴァイキングの世界を体験したいと思ったからです。ところが、フェリーボートに揺られているうちに、好戦的で野蛮な民のことなんかすっかり忘れてしまい、「ノルウェーの森」の世界で遊んでいたのでした。これは、その「ノルウェーの森」ソグネフィヨルド・バージョンの序章の一節。
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海岸線を深くえぐるフィヨルド(ノルウェー・ソグネフィヨルド)

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October 03, 2004

松井邦雄『夢遊病者の円舞曲』作品社 1982

「世界が至るところで世紀末の腐臭と二十世紀という名の怪物の胎動をともども感じながら、富の拡大と貧困の深化という両極に引き裂かれてなすすべを知らなかった八○年代に、世界中のどこにもまだ大衆の肉体を解放する実りのある手だてがみつかっていなかったこの時代に、なぜ南半球の首都ブエノス・アイレスの港町にタンゴという比類ないリズムの器が出現したのだろうか。/おそらく器をなみなみと満たす感情(センチメント)がそこにはみなぎっていたのだ、としかいうことができない」。
都市は必ずその場所にふさわしい音楽を産み落とすものです。リオにとってのボサノーヴアがそれであるように、パリにはシャンソンが、ナポリにはカンツォーネが、リスボンにはファドが、そしてブエノス・アイレスにはタンゴが。なかでもタンゴは、ブエノス・アイレスの日常(ボルヘス)そのものが形を変えて表出したものです。生きることの労苦を、ダンスで紛らわさずにはいられなかったブエノス・アイレスっこにとって、それは蕩尽であり感情の形式でした。
「タンゴが作り出したもの、それはブエノス・アイレスの貧民たちの、そういってよければ〈宿命の感覚〉ではないか。宿命の感覚とは生の一回性を文句なしに奉ずることである」。(「海と港と漂泊者」『夢遊病者の円舞曲』所収)
松井さんとは生前三度お会いする機会がありました。始めてお目にかかったのがお勤め先である旧TBSの応接室。この時は、原稿の依頼で。二度目はそばの寿司屋に誘っていただいた時。ある編集者と松井さんを引きあわせるために。そして三度目は、松井さん行きつけのタンゴ・バー「ダリ」にて。僕はしこたま酔っぱらって、口笛でピアソラの「Adios Nonino」をやったら、松井さんはトラピチエの赤を一本ご褒美にくれました。結局、それが松井さんとの最後のお別れになりました。
ブエノス・アイレスのボガの地を踏んだのは、それから5年後。タンゴ発祥の地として知られるボガ地区カミニート。そのカラフルな町並みは、よく見るとペンキがはげ落ち壁は今にも崩れ落ちそうな、お世辞にもきれいとは言えないものでした。しかし、その崩壊寸前ともいえる荒廃した雰囲気は、激しさと哀愁がとぐろのように渦巻くタンゴととてもよくあっているようにも思えました。僕は、迷うことなくカミニートでは最も良く知られたタンゴバーに入り、「宿命」と言う名前をもつワインべースのカクテルを注文しました。
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写真は、カミニートの町並み


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